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『ゴッドファーザー』~好きの中心にある一本は深夜放送での出会い。

1945年のニューヨーク。

最大の勢力を誇るイタリア系マフィア”コルレオーネファミリー”の光と影、栄華と衰退を描く。

”ドン・コルレオーネ”と呼ばれる男がいた。

彼の求める報酬ーそれは”友情の証”と”ゴッドファーザー”という愛情のこもった尊称のみであった。

今まで一体どれだけの映画を観ただろうか。世に言う超大作、話題作、名作はもちろん、駄作と呼ばれるものやB級と呼ばれるものまで数限りなく観てきたと思う。

”観てよかった”と思う映画もあれば、”観るんじゃなかった”と思う映画にも出会ってきた。

そんな中で一つだけ自分に課したポリシーがある。それは”面白いの基準は自分で決める”と言うものである。

世の中ではどれだけの名作や超大作であっても”面白くない”と断じる人もいる。もちろんそれは自由である。また多くの人が”良い”と感じるものに対してわざわざ逆張りをしたがる人達も一定多数いるのも事実である。それもまた自由だとは思う。

だからこそ自分は他人の”好き”を肯定も否定もせずに”自分は好きかどうか”だけを基準としてこれからも映画と向き合おうと思っている。

そしてこれまで誰かに”今まで観た映画で一番好きな作品は?”と聞かれた度に即答してきた作品がある。それが”ゴッドファーザー”である。何がとかどこがとか聞かれても困ってしまう。だって好きなんだから仕方がない。

さてこの作品は今更語るまでもない名作である。1972年に公開され、今まで数えきれないほどの人たちが観てきたと思うので映画そのものはあまり語らずに行こうと思う。

自分がこの作品に出会ったのはかなり遅く、すでに成人になってからだったと思う。

仕事を終えて疲れ切った体で帰宅した時にたまたま点けたテレビでこの作品が放送されていた。さして興味もなかったが、聞いたことのあるタイトルであるという事と、単純に映画を観るのが好きだという理由で観始めた。

当時は深夜帯に割とこんな名作も観ることが出来、今よりも映画好きには恵まれた時代であったと思う。もちろん吹き替えで、所々カットされての放送ではあったが楽しく観ることができた。

その夜何よりも最初に強く惹かれたのは俳優が格好良く着こなすファッションであった。その時はまだバブルの終焉を迎える頃で、ブランドのスーツや肩パッドがびっしり入ったジャケットなどが全盛期の頃であった。

そんな中だからこの作品に出てくる三つ揃いのオーダーメイドのスーツ(決してスリーピースなどと言う軽薄な感じではない)は物凄く粋な感じに見えて金欠の自分には憧れでしかなかった。

ちなみにゴッドファーザーと言うとみんな”あぁ、アル・パチーノね”と返してくれるが、実は自分にとってはマーロン・ブランドのドン・コルレオーネこそが一番なのである。(もちろんアル・パチーノも大好きである。しかしこの作品ではまだ若いせいか、ほぼ無名だったせいかイマイチ存在感が足りないように思う)

冒頭で葬儀屋のボナセーラのセリフが淡々と続いた後、まるで”神の如き権威”のような佇まいのドン・コルレオーネが登場する。

もうこのシーンだけで”好き”を確約してくれる。

このシーンのおかげで絶対着ることのないタキシードを買おうと思ったのは黒歴史である。

後年になって知ったのだが、ブランドは1973年のアカデミー賞で”ゴッドファーザー”主演男優賞を受賞するが、当時のハリウッドの先住民への扱いに対して抗議し辞退している。

そんな骨太のブランドの在り方を知らず知らずのうちにドン・コルレオーネという役柄から感じ取っていたのかも知れない。

あと、登場人物が非常に多く、様々な思惑や人間関係を描写しているのだが、その割にストーリーは分かりやすく作られているので、初めての視聴でも混乱することがなく最後まで観ることができた。

厳格だが家族を何よりも愛する父親と、古き良きイタリアの母親、気が荒く争いを好む長男に、気が弱く争いが苦手な次男、そして父親の素養を一番色濃く受け継いだ三男に、家族からの愛情をたっぷりと受けて育った末娘。このバランスだけでも物語の核となる部分がすぐわかってしまう。

そしてここで出てくる家族とは血のつながりは勿論、ファミリーの絆であり、友情である。

そのことを物語っているのが、一族とは血の繋がりがないのだが、ヴィトーの息子同然としてファミリーの相談役についているトム・へーゲンの存在だ。

普通なら兄弟から距離を置かれたり、苛められたりしがちな立ち位置にいるのだが、この物語の中では兄弟からも厚い信頼と友情を得ているのがわかる。

父親であるヴィトーの権威とその言葉の絶対と、家族に対する愛情のスタンスがそれだけでも伝わってくる。(事実トムは何よりもヴィトーに多大なる恩義を感じ、組織に忠誠を尽くしている)

あと、ヴィトーの話になると必ず出てくるのがパート2で若い時のヴィトーを演じたロバート・デ・ニーロである。

デ・ニーロは最初マイケルの役でオーディションを受け、落選するのだがパート2のかなり重要な部分を占める役でキャスティングされる。なんと言ってもファミリーの起こりを描くパートでのヴィトー役である。

移民としてやってきたアメリカで家族を持ち、友人と出会い、生きて行くために敵と見做すものを排除する冷酷さと、自分を慕い頼ってくるものには懐の深さを見せる。男なら憧れるに決まっている。

パート2は”マイケルとファミリーの危機一髪”だけではきっとここまでの名作にはなり得なかった気がする。このファミリーのドンとしてのヴィトーの始まりの部分が作品に重厚感を与えているのは間違いない。そしてその後デ・ニーロは”タクシー・ドライバー”等に主演し、頭角を現した後押しも押されぬ名優となって行くのである。

あと、”ゴッドファーザー”を語るとすぐに出てくる話題は”馬の首”と”ソニーの最期”の場面である。

詳細は割愛するが、馬の首は本物を使用したと言われている。ファミリーの脅しの恐ろしさを演出するために直前に差し替えたという話もある。

ソニー襲撃の場面は演じるジェームス・カーンの体に約100個の着弾装置が取り付けられ、顔にも8個ほどの装置が貼り付けられた。

準備期間は3日を要したが撮影は一度で済んだらしい。確かにこんな場面は2度も3度もできるものではないだろう。そしてこの場面のインパクトが強すぎたせいか、カーンには”ゴッドファーザーのソニー”の印象が付きまとい、その後のキャリアでは苦労したらしい。

2022年7月6日、82年の生涯に幕を閉じるまで、多くの作品に出演する人気俳優だったカーンだが、やはり彼の代表作は『ゴッドファーザー』だった。
彼の一世一代の演技であるこのシーンを、ぜひとも一度味わってみてほしいと思う。

ちなみにこのような演出が初めてスクリーンに登場したのは1967年の”俺たちに明日はない”のラスト、ボニーとクライドが87発の銃弾を浴びて絶命するシーンである。

”映画史上最も血生臭い死亡シーンの1つ”とされているのだが、実はそこへ至るまでには日本映画の影響が色濃く反映されている。いわゆる”黒沢映画”である。

黒澤明は”七人の侍”(1954)で肉の千切れるような痛々しい効果音を使用し、”椿三十郎”(1962)では、クライマックスで動脈から噴水のように血が吹き出る凄惨な映像を創り出した。

黒澤映画の持っていた迫力は映画の本場アメリカのクリエイターたちにも大きな影響を与え、アクションシーンではよりリアルで暴力的な表現が求められていく。そしてカラー作品が主流となった60年代以降、スクリーンに映える赤い鮮血は暴力表現に不可欠なものとなったのである。

監督であるコッポラは、ギャング映画であるにも関わらず”男たちが暗い部屋で密談ばかりしている”と語っていたと言う。

そんな中だからこそソニーの銃撃シーンは観客の印象に残る派手な演出でこの映画のクライマックスの一つと言える場面を生むことになった。

そしてその後時は流れ、パート3ではソニーと愛人の間に生まれた子供が登場する。アンディ・ガルシア演じるヴィンセントである。

父親譲りの血の気の多さで敵を作りがちなヴィンセントではあったが、物語の最後ではマイケルからファミリーを引き継ぐことになる。

その後のファミリーの物語についてはこれまであまり触れられていなかったが、幻のパート4の企画はあったらしい。原作者のマリオ・プーゾが亡くなってしまったのでこの企画はなくなってしまったのだが、個人的にマイケルとヴィンセントではあまりに器が違いすぎると思うので、実現しなくて良かったとは思っている。

さて話は戻るが、実は原作と映画では少しニュアンスの違う場面もある。例えば原作では普通に”マフィア”という単語が出てくるが、映画では一切出てこない。(”ギャング”という表現はある)

ルカ・ブラジというキャラクターの描写では、原作では残酷な人物像まで具体的に描写されており、コルレオーネ帝国の恐怖の象徴として君臨している姿が描かれる。一方映画ではマイケルがケイにさらっと話す程度に留まっている。なのでルカが殺害されるという事はコルレオーネにとって多大なる戦力の喪失という事が伝わりにくくなっている。

あと原作のマイケルはヴィトーの持つ計算高さと冷酷さを生まれ持っており、彼が凄むと兄弟も従わざるを得なくなる描写がある。だが映画では”頼りない三男坊”として登場してくる。

ソニーは映画では血の気が多く、すぐに頭に血が上って見境がなくなるキャラとして描かれているが、原作ではもっと現場での統率力も後継者としての振る舞いも描かれている。

そんな兄と弟の間で劣等感に苛まれ迷走するフレドの内面も原作では丁寧に描かれていて、ファミリー継承後のマイケルを恐れる理由もきちんと説明されている。

そしてまたヴィト—の最期の描かれ方もまた違って描かれている。映画では孫(マイケルの長男)と庭で遊んでいる途中に心臓発作で倒れ、それを見た孫が大人たちを呼びに行く場面で終わるのだが、原作では駆けつけてきたマイケル達によって日陰に運びこまれた後、手を握る息子に向かってヴィトーが「Life is so beautiful(人生はなんて美しい)」と呟いて息を引き取るのである。

余談になるが、映画のパート3ではマイケルの最期が描かれているのだが、兄達のように誰かの手にかかって死ぬこともなく、椅子に座ったまま自然死する。マイケルは最愛の娘を失い、自分の跡を血の繋がった子供に託すことも出来ず、誰にも看取られずに孤独に死んでゆく。

同じ死に方でも父はラオウのように満足して逝ったのに対し、息子は後悔を引き摺ったまま死んでいくように見える。この一連の作品の主人公にしてはあまりにも救いのない最期である。

古い体質のままのコルレオーネファミリーのその後もどことなく暗示しているような気がしてならない。

話が逸れたので第1作に戻すことにしよう。

最初に印象に残ったのは結婚式の場面の華やかさである。そしてその中で主要人物の設定やコルレオーネファミリーの力の強大さを描き出して行く。見事なプロットである。

しかもヴィトーは娘のコニーの婿であるカルロに全然興味を示さないのが面白い。きっとカルロの小物感を最初から見抜いていたのだろうと思う。ファミリーの仕事もさせないと言っていたしね。ファミリーの輪に入れなかったカルロは他のファミリーのドンに唆されて裏切ってしまうのだが、すぐにマイケルにバレてたし。DVするのは屑。最後はクレメンザにお仕置きされるのである。

あと裏切者で印象的なのがクレメンザの部下のポーリー。これも即ソニーにバレて粛清されるのだが、クレメンザとの関係が良い感じに見えたので意外だった。車の中で殺される場面はものすごく乾いた感じの画面で掟の非情さを物語っていた。

だが実はもっとすごい裏切りがある。それは”マイケルの結婚”である。

初見では全く意味が分からず感情をどう処理すればいいのか分からなかったくらいである。

確かにケイとアポロニアどちらを選ぶかと言われれば自分も迷わずアポロニアを選ぶ自信がある。そしてここからこの映画は”都合のいい女だったケイが最後にマイケルを捨てる話”の始まりとなるのだが、あまりにマイケルが鬼畜すぎて全く同情できなくなってしまう。(でもアポロニアに罪はない)

結局部下の裏切りに合いマイケルはアポロニアを失うのだが、この時点で彼の不幸と孤独は運命付けられていたように思う。この経験で得た教訓からパート3でヴィンセントに言った”敵はいつも愛する者を狙ってくる”というセリフは特大のブーメランになって戻ってきたしね。

とは言え父親のヴィトーも兄のソニーもファミリー最大の武闘派のルカも失い危機に陥ったコルレオーネファミリーをマイケルは守り抜く。取った手段は”敵対する者は全て抹殺する”という一択。

これによりマイケルは名実ともにコルレオーネファミリーの継承者となり、ゴッドファーザーとしての道を歩むこととなる。挙句の果てに実の兄を手にかけることになってまでも。

きっと父親があれほどに嫌悪した麻薬の商売にも手を出していることは想像できる。どこかで道を違えたことは本人が一番よくわかっているに違いない。

映画を観終えたあとはどことなく虚無感と哀愁のようなものを感じた。多分これは日本ではまず作れない映画ではあると思う。

作ろうとすれば、どうしても”仁義なき戦い”のようなものが出来上がるのは国民性上仕方がないと思う。だがそれはそれで良いとも思う。

ちなみにマイケルの息子役を演じて(?)いるのはソフィア・コッポラ。勿論コッポラ監督の愛娘である。その後彼女はパート3にてマイケルの娘として登場するのだが、演技は・・・である。そのことを自覚したのかその後は映画監督として”ロスト・イン・トランスレーション”や”ヴァージン・スーサイズ”などの作品を作ることとなる。それで良かったと思う。

あと余談ではあるがゴッドファーザーのパロディ映画で”ドン・サバティーニ”という作品がある。

明らかにゴッドファーザーの世界観をコメディ映画として作られた作品である。そして驚くことにマフィアのドン、カーマイン・サバティーニを演じているのはマーロン・ブランドなのである。

誰がどこからどう見てもドン・コルレオーネの佇まいで涼しい顔で演技をしている。面白い。

作品としてはイマイチ話題にならなかったが、ゴッドファーザー好きなら一度は見ておくことをお勧めする。

話は長くなったが、結局この映画が一番好きなのだという事と今でも年一回は必ず三部作まとめて観ることをただ書きたかっただけである。

そういえばパート1と2をまとめて時系列に並び替え、その上にものすごいボリュームの未公開シーンを合わせて編集した”ゴッドファーザー・エピック”なるものが存在する。自分が観たものはVHSのビデオテープだったので今では観ることが出来ない。ぜひパート3まで合わせてDVDやブルーレイで”究極完全版”とでも銘打って発売されないものだろうか?

”エピック”だけでも8時間くらいあった気がするが・・・

監督フランシス・フォード・コッポラ
脚本マリオ・プーゾ
フランシス・フォード・コッポラ
原作マリオ・プーゾ (1-2)
出演者マーロン・ブランド (1)
アル・パチーノ (1-3)
ロバート・デ・ニーロ (2)
アンディ・ガルシア (3)
ジェームズ・カーン (1-2)
ロバート・デュヴァル (1-2)
ジョン・カザール (1-2)
ダイアン・キートン (1-3)
タリア・シャイア (1-3)
音楽ニーノ・ロータ

今回も最後までお読みいただき有難うございます。

今回はトリビアっぽい内容にしてみました。(多分考察とかは語りつくされていると思うんで)

エピックの発売、本気でお待ちしております。


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